――雪が降っている。
 細いすきま風に刺すような冷たさを感じて、私は目を覚ます。
 やや色あせた生地のソファーの上。ざらざらとした荒い肌触りの背もたれに、肩を抱かれて。背中の少し開いた服を着た私の地肌がそれに触れていて。ああ、少しだけ温かい、と思った。部屋全体に冷めた空気が漂ってはいても。
 目の前にあるアンティーク調のテーブルの上に、白いティーカップと小さなティーポット。カップに注がれた紅茶は、まだ微かに湯気がたっていた。ほの白く形の定まらないそれが静かに浮かんでいって、それから何か、小さななにかに変わっていきそうな一瞬、部屋の真ん中あたりに溶けて消える。白いなにかが生まれては消えていく。
 尽きることの無い、その繰り返し。
 そういえば、すきま風……ふと気づいて、もう一度窓の方に目を向ける。真っ白でぼんやりと、もやのかかったような外の景色。曇り空。雪が絶え間なく降っている。だけどすきま風の気配なんてどこにもなくて、もしかしたらドアが開けっぱなしだったかな、と考えたとたんに視界が開けた。要するに、ようやくはっきり目が覚めた。
 
 不思議と寝起きらしいぼんやりとしたあの感覚も体中がだるい感じも全然無くて、目が覚めたというよりも、気づいた、ような感覚。自分自身に。
 ティーカップに目を向けると、湯気はあがっていなかった。多分、冷めきっていた。永遠のようにも見えたあの白いなにかは全部溶けていったんだと、勝手に納得した。
 それでもう目に見える範囲の物は全部見てしまったような気がして、とりあえず立ち上がる。振り返ってソファーを見る。忘れものは何もない。
 窓のそばに暖炉があった。火はやはり消えている。部屋に満ちた空気の寒さを思い出して、反射的に火をつけようと手を伸ばした。そして中途半端に伸ばした手を止めた。一瞬頭が混乱して、静かな部屋に立ち尽くす。どうやって火をつけるのか、わからなかった。多分やったことはない。体が覚えていなかったから。
 とりあえず火を起こすために必要な薪が無いことに気づいて、探そうと思い立つ。ざっと部屋を見渡して、それから近くにあった背の低い戸棚の中を覗き込んでみて…戸棚の中には、古びた置時計があった。木製の小さな時計。ぽつんと置かれたそれは、とても場違いな気がする。
 戸棚の中は暗くてよく見えなかったから、明るい場所でよく見ようと時計を取り出してみた。止まっている。
 それはそうと。一瞬、夢の内容を思い出しかけた時のような妙な感覚がよぎる。その感覚はすぐに遠ざかっていって、それよりも今は薪を探さないと。相変わらずすきま風が吹いている気配は無いが、少しずつ寒さが部屋を満たそうとしているのが分かった。
 時計は戸棚の上に置いて、もう一度棚の中を覗き込む。空だ。寒さは確実に増してきている。
 今度は見落としの無いように、というつもりで部屋の中を見回す。木でできた壁。窓があって、それと直角の位置にある壁面にはドアがあって。それからベッドもあるし、クローゼットも。小さな小屋のようだけど、それにしてはあの、ぽつんと立っている建物特有の孤独感は無い。もっと安心できる場所。だけどその安心感が、この寒さに奪われてしまうようで。
 部屋中の収納家具類、それからベッドの下。目につく場所はすべて覗き込む。肝心のものは見つからない。薪を探す手の先から体温が奪われ、震える。
 息が白い。
 私の息はティーカップから立ち昇る湯気のように…いや、違うな。すぐに思い直す。吐いた息はすぐに分散して消えてしまって、あの湯気のような永遠にはなりえない。そうして呼吸するたびに私の体の中にあった温かさは消えていく。
 なんとかしなきゃ、とは思っても、体温と同時に気力も奪われていくようだった。
 薪を探すことを諦めた私は最初にいたソファーの上に戻り、両膝を抱えて縮こまる。色あせたソファーのざらざらした生地が、冷えた体を無遠慮に撫でる。
 静かだな。そう思って落ち着いた途端、せきたてるような孤独が満ちる。
 私は否定した。寂しい、とは思いたくない。なぜなら、ここには私ひとりしかいないから。それが当たり前、としか思えない今の状況で孤独を感じるなんてかえっておかしい。
 落ちつかずに視線だけ動かしていると、戸棚の上の時計が目に入った。動かない時計。そのそばに、火の消えた暖炉。それから壁に目を向けると、窓……明るい。外はいつの間にか晴れていた。
 深々と降り続いていた雪は止み、やわらかい日差しが外に漂っているのが分かる。部屋の中まで明るく染めるほどの強い光ではないから、晴れたことに気づかなかった。まるで薄く透明な生地のカーテンを通して見たような、ぼんやりとした明るさだった。
 私はクローゼットの中に上着があったのも忘れて、すぐに立ち上がってドアに手をかけた。
 そうすることがとても自然に思えたから。というか、朝目覚めたらリビングのカーテンを開けるのと同じくらい当たり前のように、私は外へ出た。
 
 明るい。  はじめにそう思った。それから、温かい。
 一面の雪景色。真っ白な雪原。冷気はまだ確かに空気の中を漂っているのに、どこか温かい。見上げると、太陽は雲の向こう側で淡く光っていた。
「雪……」
 どこからか聞こえてきた声に一瞬驚いて、すぐに納得する。自分の声だった。ずっと黙っていた私の声は、少し変だった。妙にかすれたような……でも元からそうだったかもしれない。
 そのとき微かに漏れる白い息はあのティーカップの湯気のように、なにかに似ていた。ゆっくりと姿を変え、空気の中に溶けて消える。懐かしいなにか。私はしばらく思いのままに息を吐いたりして、その感覚に意識をゆだねた。体はもう冷えていなかった。
 そうして知らないうちに落ち着きを取り戻していた私は、はっきりと目を開いてあたりを眺めてみる。ただ白い世界。遠くに森が見えるけど他には何も無い。空の色は、何色とも言えない。光の色。
 そんな風景を眺めて、雪がきれいだと思った。とてもきれいなそれを、いつまでも取っておきたいと。
 しゃがみこんで、両手で雪をすくう。さくっとした手ごたえがあって、やわらかい。手に触れた部分が少し溶けて肌にしみ込む。ああ、溶けてしまうんだ、と思う。そんな当たり前のことを思って、でも手放したくなかった。いつまでも雪を握ったままの両手は冷たさに体温を奪われて、でもそのことは気にもしないで。ただ真新しい雪野原をぼんやりと見ていた。
「全部、きれいだ……」
 その風景をまるごと、どこかに取っておきたいと思う。どうしてそう思うのか分からないけど、ただそれは、一度失くしてしまった何かを見つけた時の感覚に近かった。そう思う。
 ほっとする気持ちと、どうして今まで見つからなかったんだろう、そう思う気持ちが混ざったような。それから、もう二度と失くすはずはないと思う。折角見つけたそれを失くすわけにはいかないと思う。
 そんな考えに心を奪われていると、手の中の雪はもうほとんどとけてしまっていた。力を込めて両手を合わせると、雪はその真ん中で小さな音を立てて潰れる。祈るように合わせた両手の隙間から、冷たい水がこぼれ落ちた。少し脚にかかった。
 ……そういえばさっき。私は突然思い立って振り返る。ドアを開けて部屋に戻る。塗れたままの手と足。床に水滴を垂らしながら部屋を横切って。
 食器棚から青い空ビンを取り出して、慌てもせずのんびりもせず、それを持ってまたドアに向かう。部屋の中にも心なしか外の光が溶け込んで、少し明るく感じた。
 外は相変わらずの白い世界。少し駆け足で雪原の真ん中に足を踏み入れる。
 雪の冷たい感覚が足を通して伝わってくる。しゃがみ込んで雪をすくう。
 それから、持ってきた青いビンに雪を詰める。満タンにはせずに半分くらい、すこしずつ丁寧に雪を詰めた。ビンを振るとその中で雪が小さくゆれる。
 その青いビンを空にかざす。少し光って、その向こうに白い野原と小さな森が見えた。青いガラス越しに見る白いかたまりは表面がとけて輝いている。とりあえず、失くし物は見つかったと思った。不思議なことに。
 光の色が周囲を照らし、染めている。
「く、ははっ」
 傾いた笑い声が漏れた。
『Tear』……end