――雪が止んだ。
 深々と降り続いていた雪は止み、少しずつ空が明るくなっていくのが分かる。
 枯れ果てた森の中、太い木の幹に寄りかかって私は空を見上げた。空。葉が枯れ落ちて無表情な枝だけになった木々の合間から見える色彩。灰色だった雲の色が、かすかに色づき始めている。
 木々の根が這う足元はまばらに残った雪に濡れていた。暗い土の大地の上に、侵食するように溶け込んでいく白いかたまり。雪が止んでから時間が経つほどにその形はどんどん不安定になっていって、もうほとんど白い部分は消えていた。その下から新しい緑がほんの僅かにだけど姿を現す。
 じめじめした空気の中。暗い色の上に、まばらな白と、そして目立たないくらいの小さな緑が濡れている。
 靴底は大分浸水してしまっていて、一歩踏み出すたびに沼地の上を歩くような。だけどそんなに不快な感じはなかった。
 それよりも。と寒さに震える手で頬に触れる。顔も指先も水滴で濡れていて冷たくて、あまり感覚は無かった。だけど僅かな痛みを頬に覚える。手の甲に目を下ろすと、無数の細かい擦り傷。上着の袖をめくると、前腕にも大き目の傷があった。ほとんど塞がりかけてはいるけど。ここまで来る間に体中を枝か何かで傷つけていたらしい。気づかないうちに。
 そもそも、ここまでどうやって歩いてきたかの記憶も曖昧だった。ただまったく覚えていないわけでもない。ただゆっくりと、そして着実に一歩ずつ、黙々と歩き続けてきた。それだけだったから思い出すようなことも無い。
 そして今は木に寄りかかって小休止をとっている。湿った木に衣服が張り付くのが分かる。さすがに地面に腰をつけて休む気にはならない。どれだけ歩いてきたか、もはや検討もつかないが不思議と平気だった。単にまだそんなに歩いていないのかもしれない。
 無意識のうちに上着のポケットに手を入れると、硬いものに手が触れた。取り出してみると、それは小さな古い置時計だ。
 ああ、そうだ。私は思い出す。
 出発する時からずっと持っているアンティーク調の置時計。とっくに動かなくなっているのに、どうしても癖のようにこうして取り出して見てしまう。
 持ち出した時にはまだ動いていただろうか、考えてみても思い出せなかった。動いてはいないけどつい見てしまう時計。よく見ると傷だらけの、誰から貰ったのかもよく思い出せない置時計。確かなのは、この状況が当たり前になってしまっていることだけ。
 じっと見てるとそのうちふいに動き出すような予感が何故かして、しばらく時計を眺めてみた。だけど動くはずがない。大分前に止まって――そう、それも確かなこと――それ以来、二度と動いたことはない。
 でもどうして止まってしまったのだろう。ひっくり返して見て、そこになんの凹凸も見当たらないことに驚く。文字盤のある正面以外から見たそれは、木製のただの箱。ねじ巻き穴などは見当たらないし、もちろん古めかしい外見には動力らしい動力が内蔵されている様子も無い。私は不思議な気持ちでその時計をしばらく眺め、それからまたポケットに戻した。
 一息ついて、それからまた歩き出そうと思い、進むべき方向へ顔と視線を向ける。と、視界の隅に映った木の幹に何か違和感を覚えた。もう一度振り返ってまじまじとその木を見つめる。何か、なにか目立ったものが表面にくっついているような。
 しかしそれはただの傷だった。堅い木の肌に深く彫り込まれた傷。濡れた幹に、まだ新しく彫られたばかりのような乾いた傷跡があった。とても目立った傷のようでもあり、見方によっては自然についた傷と見分けがつかないようでもある。
 よく見れば、それはなにか意図を持って彫られた形のようにも思える。文字かもしれない。
 私は目を凝らして見つめ、顔を傾けてみたり、今度は目を細めてみたりしてその印を観察した。やはり文字のように見えるものの、それは知らない文字だった。それでも何か読み取るつもりで見れば、何か伝わってくるような気もした。つまり、その“文字”が確固たる意思を持って刻まれたということ。
 何かのメッセージかもしれないし、単にこの森で迷った人間がつけた目印かもしれないけれど、相当の意思と力を込めて深く刻まれたそのなにかは奇妙な存在感を持っていた。とはいえ、さっきまでは全く気がつかなかったのだけど。
 思わず手を伸ばして、それに触れてみる。冷たい。それはただ濡れた木の幹の触感だった。
 
 地面にしっかりと足をつけ、真っ直ぐに前を見る。無数の枯れた木々。それは大地から生える牙のように鋭く、無慈悲な姿を曇り空へと向けて立ちずさんでいた。木々はそれぞれがお互いに無関心なように冷たく沈黙し、それらの合間からのぞく森の遥か奥の方は霞んでよく見えない。
 それでも、歩き続けるしかなかった。そのことが辛いとは思わない。悲観するほどの疲れは感じないし、雪や森の湿気で濡れることにはもう慣れた。
 とにかく。また雪が降り出す前になるべく進んでおかないと。そうは思ったが、どこかでもう二度と雪は降らないような気もしていた。断言はできなくても、予感で。空気の中から雪の気配が消えた。そう思えた。気がつけば、降り積もった雪ももうほとんど見えなくなっていた。
 もしかしたら何か生き物に出会うかもしれない。できることなら早めに食料も確保しておかないと。  そうして歩き続ける途中で何気なく、今までは背景にすぎなかった木の一本に目が止まった。無表情な枯れ木が、その一瞬だけそこに立ち尽くす人間のように感じられた……そう言ってもいいくらい、そこにあるだけの木に気持ちを引かれた。そしてその木の表面に見つけた。あの、なにかを。
 近づいてよく確認してみると、やはりあの文字がそこに刻まれていた。別の文字ではあったが、恐らく同じ種類の言語において使われる文字だろう、それが文字だとすれば。深く、そして、さっきと同じくらい新しい印。
 もしかして。思い立って、恐る恐る他の木の一本に近づく。一見するとなんの変哲もない枯れた木。回り込んで幹の反対側を見ると、あった。
 刹那、他には誰もいないはずの枯れた森に誰かの気配を感じた。本当は気のせいかもしれない。ただ、その刻まれた文字そのもの……確認するまでもなく、他のすべての木々に真新しい印が刻まれていることが分かってしまった。直感的に。
 心臓が高鳴る。その鼓動は森全体に響く……そう思えるほどに、私は周囲を見る余裕を無くしていた。いや、意図的に周りを見ることを放棄したのだ、私は。その森が今まで思っていた以上に広いことを理解したから。その考えつくすことのできない広大な空間に、ひとり立っていることを理解したから。そしていかにそのことを理解していなかったかを、理解したから。
 一瞬足がもつれそうになりながらも、私は歩行を再開した。そばにあった根っこにつまづき、それでも何とか体勢を立て直しながら今までと同じように歩き出す。
 そう、なるべく今までと同じように。しかし意図せず速度は次第に速まっていく。進む先を目指す途中、思わず木々に刻まれたなにかが目に入る。なにか。森の中じゅう当たり前のように存在しているその木々から完全に目をそらすことは無理で、一度気づいてしまったそれを私の意識から消すことは二度とできなかった。
 時々、牙のような木の枝が腕や顔に傷をつけるのにも構わず、私は歩き続けた。
 
 やがて、ようやく森の出口に辿り着いた。
 あれほど数多く周りに立っていた木々は進むほどに減っていき、最後には開けた空間が目に飛び込んできた。視界の端に見たくないものが映る、ちりちりした感覚も終わりだ。
 淡い黄土色の乾いた大地。変わらず曇り、光の色を湛えたままの空の色。森と同じような枯れ木も存在していたが、それは転々とかぞえるほどにしかなかった。ここはもう森ではない。
 相変わらず湿ったままの体全体で息をして、私はひとまず気を落ち着けた。無意識に上着のポケットに手を入れようとして、寸前で気づいて、やめた。
 少しのあいだ森の出口に立ち尽くしていた私は、速度を元通りゆるめてまた歩き始めた。乾いた大地から伝わってくる感触に確かな手ごたえを感じて、心地よい。靴はすっかり浸水しきっていて、沼の上に浮いたような感覚を多少は覚えはしても。
 黄土の色の大地の上、一番近くに生えていた枯れ木に近づく。そして木の幹を眺め、触れる。はじめは少しのためらいを感じながら。それから、はっきりとした確信を持って。その木の表面には何も無い。もちろん濡れてもいない。
 私はナイフを取り出した。一度その手応えを確かめながらしっかりと握りなおし、木の表面に突き立てる。
 迷うことはなかった。私は、確信を持ってその幹に文字を刻んだ。深く、そして意思を込めて。
 ――突然ナイフを持つ腕に痛みを感じる。大した痛みではなかった。また知らないうちにつけてしまっていた大したことのない傷だろう。
 私は手を止めて、上着の袖をめくってその傷を確認する。なにか、腕に刻まれた傷は印のようにも見えた。
 たった今、自分が文字を刻み込んだばかりの木の幹を見る。その木に私がつけた傷と、森の木々によって私の腕につけられた傷は、全く同じ形をしていた。
『Scar』……end