息はだいぶ荒くなっている。喉が渇き、ひび割れた唇に血が滲む。
もしかしたら、もう死ぬのかもしれない、と感じる。
どこまで行っても、どれだけ歩いても、周りには荒廃した景色が続くだけ。
ひび割れた大地の上に立つ木々はすべて死に絶え、すでに瓦礫の山と化した建物が点在している。空は重苦しい雲に覆われ、世界に光は射し込まない。
その人物は、遥か遠くへと目を向けた。
地平線の向こうの空が、ぼんやりと光って見える。その光にたどり着けば、きっと休める。そうに違いない。
その人物はもう一度力を振り絞る。歩き続ける。
だが、光はいっこうに近づいてはこない。その光はいつまでも地平線の向こうにあり、周りの景色が変わることはない。
風が吹く。寒い。辛い。
右足に込めたはずの力は地面に伝わることなく、その人物の体は大きく均衡を崩した。自分の体を支えることすらできず地面に膝をぶつける。忘れていたはずの痛みが体を貫く。
起き上がる気力はそこで潰えた。その人物はその場に倒れ込む。弱々しい吐息が漏れる。
切れ切れに息を吸い込む。肺の中に絶望が溜まる。
体を起こそうとして、腕に力が入らないことに気がつく。右腕は痺れ、むなしく震える。
そして訪れる静寂。
さっきまで断続的にとはいえ聞こえていた自らの足音も消え、大気の唸る音だけが微かに耳に入る。生き物の気配はどこにも無い。
何かに語りかけるような小さな吐息だけが漏れ、世界が遠ざかる。
その人物は、思い出していた。
世界を、そして大切なものすべてを襲った炎を。わずかな幸せを一瞬にして奪った、あの炎を。孤独に生きていたその人物を救った人々。彼らの暮らしていた町。すべてを消し去った炎。
その人物の心の中には、もう、その炎を恨む気持ちは無かった。それどころか今は、愛しさすら感じている。
それから、もっと昔のことを思い出していた。
何ひとつ確かな像を結ぶことのない、あまりにも古びた最後の記憶。
記憶の中の空には、真っ白な光が溢れていた。そしてその光に照らされた自分も、優しい光に抱かれている。
その人物は静かに微笑み、目を閉じようとした。
しかし、そのまま眠りにつくことはできなかった。ほんのわずかな力が戻り、その人物は目を覚ます。
ゆっくりと世界が戻り、再び大気の唸る音が遠くに聞こえる。乾いた地面の上に倒れたままの体がある。
空は暗く、雲は流れている。
地面に横たわったまま見つめる視線の先に、大きな建物が見えた。
何らかの宗教的な施設だったのかもしれない。精巧な彫刻が施された、どこか宗教的な意匠の壁や柱。屋根は崩れ落ちて跡形も無いが、堅牢な作りの門は元の形のまま残っている。
門の真上には人物をかたどった彫刻があり、訪れる者を中へと誘うように微笑を浮かべていた。優しい笑顔の上には、長い時をかけて刻まれた小さな傷がいくつも見える。
それは現実味の無い光景に思えた。
限界を超えたはずの腕にもう一度力を込め、両手で体を支えて上半身を起こす。痛みの残る膝に体重を乗せ、両足で立ち上がる。その足は痺れ、震えが止まることはなかった。それでも歩き出した。
扉の無い門を抜けた先は、天井の無い堂。建物の上半分が無くなってしまった今もなお、その荘厳さは失われないでいた。見上げれば暗い空がそこにあったとしても。
足を引きずったまま、堂の中心へと進んでいく。一度は戻った命もまたすぐに無くなってしまうだろうことを、その人物は歩きながら感じていた。
世界が再び、薄れていく。
焦点の定まらない目を凝らして見る。壊れずに残っている石像がある。何かの神か、天使を模したものか。その人物はゆっくりと石像に近づいていった。最後に何かの救いを得られるかもしれないという、わずかな望みを抱いて。
驚きのあまり、かすれて声にならない声が乾ききった喉を震わせる。
近づいて見たそれは石像ではなかった。堂の柱に縛り付けられた人物だった。生き物が消え去ったはずの世界に、ただ一人残された最後の人間だった。
磔にされた者が、歩み寄るその人物を見る。
その者は門に刻まれた聖者よりも多くの時を待っていたのだろうか。
それは悲しい瞳でもあり優しい瞳でもあった。恐ろしいものではなかった。その表情は、歩み寄るその人物に不思議な懐かしさを感じさせた。
「また会えたね」
世界が崩れる最後の瞬間、二人は互いに見つめあった。